まともがわからない

虚実半々くらい

真夏にキャメルのコート

自分や周囲の人々の人生がゆっくりと鈍い音を立てて動き出すのを感じる、どことなくアンニュイな2月の夜。

結構前に友達に分けてもらったキャメルに火をつけたのは、前日にシーシャを吸ったばかりの肺が煙の味を未練がましく求めていたからなのかもしれない。

ラーメンズのコント、「プーチンとマーチン」ではマーチンがキャメルのことを「ラクダ味のタバコ」だと言っている。

 

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ラクダの味ってどんなんだろうかとYoutubeで調べてみると、ディスカバリーチャンネルラクダを捌いている動画が見つかった(かなりショッキングな映像なので閲覧は自己責任で)。ろくに調理もせず食べているので当然のことだが、どうやら臭くて堅くてとても食べられたものではないらしい。また、「ベルベル人は非常時になるとラクダの生存に支障がないように脂肪を切り出して食べる」だとか、「遭難した遊牧民ラクダの胃の中の水を飲んで生き長らえた」だとか話しているが、そんなことが可能だとも到底思えない。かなり眉唾で得体が知れない。

 

ふと傍のキャメルの箱を眺めてみると、プログレバンド「Camel」や日本だと「休みの国」のジャケットを想起させるのっぺりとしたヒトコブラクダのイラスト以外には、タール量もニコチン量も一切情報が記載されておらず、こちらも得体の知れなさという点ではラクダの肉とそう変わらないのではないかと恐ろしくなって、まだ半分ほど残っているタバコの先端で不気味に光る炎を靴底で揉み消した。

 

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牛丼にまつわるエトセトラ

牛丼屋に行くといつも、店外のポスターで大々的に宣伝された期間限定メニュー的なやつを、ほとんど反射で注文してしまう。しかも大盛りで。そして食後(松屋の場合は味噌汁を飲んでいるタイミングで)、普通の牛丼の並でよかったな、と毎度後悔する。もう何度こんなことを繰り返せば気が済むのか。

 

 

平日の昼下がり、牛丼屋の前で人を待っていると、中学生男子のグループがイキり散らかして店内へと入って行った。初めて子供たちだけで外食する時って、なんか気恥ずかしいような、ちょっと大人になったような感覚あったよなー。学校のテレビで一瞬「笑っていいとも」が映って、全然どうでもいい芸能人なのにちょっと知ったかぶりしちゃうようなあの感覚。俺も初めて友達同士だけで行ったの牛丼屋だったなー。あれ、ラーメン屋だったっけな。どっちでもいいや。

 

 

松屋の目玉焼きが乗ったハンバーグ定食は、その名を「ブラウンエッグ定食」という。

かわいい。

 

 

うちの母は肉がほとんど食べられないのに、肉料理は器用に作る。牛丼もその一つだ。

そもそも肉のエキスがだめらしく、タマネギすら味見できない状態で毎回同じ味付けになるのだから感心してしまう。一度だけめちゃくちゃにしょっぱい牛丼が食卓に並んだことがある。今時ホームドラマでも見ない、砂糖と塩を間違える激ベタうっかりをかました夜、母は少し寝込んだ。

 

 

紅生姜のない牛丼は牛丼の味がしなかった。

もしかしたら俺は紅生姜丼に肉を乗せて食っているのかもしれない。

 

 

牛丼は確か英語で「ミートボウル」だったよな。

いいのか、そんなことして。お弁当界のファンタジスタ、ミートボールさんに怒られないのか?

なんて心配していたが、よくよく考えたら「ビーフボウル」だった。

心配すべきは自らの知性だった。

くすりをたくさん

日曜日は最高。

10時過ぎまで眠れるから。

 

ボーッとする頭のまま、何となくニンテンドースイッチを起動する。

モンスターハンターの新作が出るらしく、体験版があったのでダウンロード。

PSP版が発売された中学生の時は、授業中も机の下でせっせと狩りに勤しんだものだが、今ではすっかりゲームもやらなくなって、少し大きめのモンスターにやられたところで放り出してしまった。

スタミナが切れてヘトヘトになったハンターの姿が今の自分を見るようで辛くなったのかもしれない。

 

日曜日は最悪。

時間がとんでもないスピードで過ぎ去るから。

 

さっき目覚めたばかりのような気がするのに、少し買い物をして家に帰るともう夕飯の時間だ。

前日に友人Aから突如焼肉に関する謎のラインをもらって以来、無性に肉が食べたくなり、スーパーで牛タンを買って帰る。レジ袋をもらい忘れたので、生肉を片手に街を徘徊する不審者になってしまった。モンスターハンターでさえポーチに隠しているというのに。

 

フライパンで牛タンを焼いて食べる。

焼肉屋にも気軽に行けないこのご時世、肉らしい肉というものを久々に食べた気がして少し元気が出た。

 

最近、同年代の友人に体力の衰えを相談すると、皆が口を揃えて亜鉛が効くのだと教えてくれるので、ここ数日薬局で買った亜鉛の錠剤を飲むようにしている。今のところあまり効果は感じない。

これってミンティアみたいにガブガブ飲まないと効かないのか?

用法には1日一錠が目安と書いてある。

 

だれか私に回復薬グレートを頂戴!

 

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スローガン、スローダウン

社内で人権標語の公募があった。

 

人権標語と言うのは「ありがとう/その一言が/社会を変える」みたいな、小学4年生あたりが硬筆の訓練で書きそうな、純真無垢かつ偽善に満ちた自由律のメッセージであり、一体誰から誰に向けられているのかもよくわからない謎の代物である。そんなものを毎年募集して優劣をつけ、何らかの審査プロセスを経て評価されたものには気持ちばかりの賞品が与えられると言うのだからなおさら狂気じみている。

 

などとアイロニーを撒き散らしながらも、私も文学青年気取りの端くれとして、ささやかなプライドを持ってこれに挑むこととなった。

半ば強制的に一人一つのネタ出しを要求され、周囲がうんうんと熟考する中、こういうのは頑張って考えた感が出ちゃうとダメなのよねーなんて思いながら、さも適当にさらっと考えたふうに、一つの標語を提出した。

 

「言葉のウイルス防ぐため/心にマスクをつけましょう」

 

これが私の提出した標語だ。

我ながら完璧だと思った。周囲への思いやりを簡潔に表現しているし、標語らしいリズム感もある。

何より時代のトレンドを汲み取り、風刺も効いている。

今年は時世柄、同様のニュアンスの作品が多いことも予想されるが、一定の評価は得られるだろうと内心スケベ顔で腹積りしていた。

 

翌日。全ての作品が集まった。

集まった作品は一度部内で投票を行い、最も票を集めた一つが本部へ送られる。

どれどれ、お手並み拝見、と他の作品に目を通した瞬間、私は虚無感を味わうこととなる。

 

「つなげよう/思いやりの輪」

「なくそう差別」

「優しい心を/育もう」

 

何の捻りもないストレートな標語の数々。

それらを目の当たりにし、私は自らの思い上がりを恥じた。

同時に、街や電車内に溢れるやたら気を衒った広告や啓発ポスターに対して日々抱いていた違和感の正体を掴んだような気がした。

標語なんていうものは平易であればあるほどよいのだ。それこそ幼稚園児にも伝わるような。

気を衒って洒落ようとすればするほど伝えるべき本質からは遠ざかっていく。

何が「言葉のウイルス」だ。何が「心にマスク」だ。全然意味わからんし巧くもない。私は自らを呪いながら、最も捻りのない作品に愛を持ってありったけの持ち票を投じた。

 

 

少し前に読んで面白かった本、「はじめまして現代川柳」

 

はじめまして現代川柳 | 小池正博, 小池正博 |本 | 通販 | Amazon

 

現代短歌や現代川柳といったものは、何となく大喜利チックなイメージがあり、妙にわざとらしい感じがして敬遠していた。

正直いうと、本書も好きなデザイナーが装丁に関わっているという一点に惹かれて買ったのだが、収録作品の内容もめちゃくちゃ良くて感激した。たった17文字(本書には17文字以外の作品、そもそも文字数を定義できない作品も登場するが)の表現で一本の映画を見たような読後感を残すような作品も数多くあり、そんなものが全2,600本以上収録されているのでカロリーは高めだが、かなり満足のいくヴォリュームであった。

 

言葉とは不思議なもので、表現の飛躍が実際に伝えたいこととの乖離を生むこともあれば、深い抽象性を介して美しいイメージを想起させることもある。

 

ネット上を中心として日常に溢れるミームスラングは何となく使い勝手が良く、面白い感じを簡単に共有できるので私もつい使ってしまいがちだが、流行に呑まれるのではなく、一歩踏みとどまって言葉の意味を考え、その一つ一つを自分の中でパズルのピースように組み立てていくことこそが表現の真の面白さであると改めて気付かされた。

 

その時、この標語が少し意味を変えて自らに語りかける。

「言葉のウイルス防ぐため/心にマスクをつけましょう」

 

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カタとやわとの間には

「バリカタ」なんて粋な言葉をいつから使うようになったんだろう。

 

僕の故郷の和歌山もわりとラーメンが有名だけど、麺の硬さは店によってマチマチなように思う。

僕の祖母は実家の近くでラーメン屋を営んでいて(残念ながら今はないんだけど)、鍵っ子だった小学生の僕はたまに祖母の店で時間を潰していた。店には県外からツーリング途中のおじさんたちが大勢来ることがあって、彼らはよく「麺カタめで!」なんて威勢よく注文していたもんだから、おじさんになると硬い麺が好きになるのか、と不思議に思っていた。

 

今日も仕事で疲れた帰り道、無性にラーメンが食べたくなって会社の近くの博多ラーメンの店に入った。

今では僕もすっかりおじさんの仲間入りを果たしたからだろうか、「バリカタで!」なんて言葉が自然に出るようになったし、なんなら「替玉」なんて魅惑の炭水化物倍増システムも甘んじて享受するようになってしまった。

 

もくもくと麺をすすっていると、僕より少し後に入店した客が店主に告げた。

「ラーメン、やわで」

「カタ」があるなら「やわ」もある。そんな当然のことに僕は感心してしまった。

博多ラーメン屋においては「カタ」より「やわ」の方がツウっぽいんじゃないかとさえ思えた。

麺の硬さを示す言葉に「ハリガネ」なんてのもあるけど、対義語はなんなんだろうか。

「ゴムホース」とか?でもゴムホースは意外と硬いか。そもそも不味そうだし。

なんてくだらないことを考えながら、曇ったメガネもそのままに、20時の閉店時間に追われるようにそそくさと店を後にした。

 

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今夜、すべての

とある夜のこと。

二軒目としてアテにしていた飲み屋が満席であったため、ふらふらと夜の街を彷徨っていた我々は、店内から漏れ聞こえるピアノの音に誘われるように一軒のジャズバーの扉を開いた。

ジャズバーは実際にジャズメンが生演奏するタイプの店と、店主が選曲したジャズのレコードやCDを垂れ流すタイプの店に大別されるが、その店は後者のタイプであった。

狭く薄暗い店内には店主と2人の男性客がおり、コンポからは大音量でジャズ・トランペットの音が響いている。隻腕で強面の老店主が無言で指し示した席につく。メニュー表などは当然のように無く、バーに不慣れな我々は恐る恐る瓶ビールを注文した。

店内にいたのはいかにもジャズ・マニアといった風体のメガネの男と、筋肉質なスキンヘッドの男。スキンヘッドの男は腕組みをしながらジャズに没入し、時折少し頷いてからちびちびとウイスキーを嘗めている。ジムのインストラクターのような見た目に似つかずジャズの知識が豊富らしく、時々思い出したように誰に話すでもなくジャズの蘊蓄を虚空に放っている。店主は相変わらずの仏頂面で、マッドサイエンティストが化学薬品を調合するかのように片腕で器用にカクテルを作り続けているが、おそらく常連客であろうスキンヘッドとは阿吽の呼吸であるらしく、互いに一言も交わさずにグラスが空くタイミングでウイスキーを注いだり、CDの裏面に書かれた曲目を見せたりしている。

 

我々が入店してから30分ほど経っただろうか。

店主がスキンヘッドと初めて短い会話を交わした。

店主の表情が不敵に緩む。おもむろに壁の棚から引き抜いた一枚のCDをコンポに入れ、ボリュームコントローラーをグイッと回す。

店主の持つCDのジャケットにはコールマン・ホーキンスの名前があった。

 

やがてスピーカーから流れ出たリズムに合わせて、繊細かつ力強いホーキンスのサキソフォンの音が絡みつく。重いウッドベースの音が老朽化した木造建築の梁をビリビリと震わせる。

 

演奏が大きくスウィングした次の瞬間、スキンヘッドが大きな声を上げた。

「いいいいいねえええええ!」

 

男の感情が爆発したような、それでいて店内の雰囲気に配慮した絶妙な称賛の声。

SNSで流れ作業のように生産される「いいね」とは比べ物にならない深く染み入るような声。

 

その後も曲の展開に合わせて男の「いいね」は続く。

曲調に応じてトーンの異なる「いいね」が吐き出され、それが空間に一種の調和をもたらす。

 

しばらく無言の時間が続き、ふと気がつくと男が座っていた席には三枚の紙幣と空のグラスだけが残されており、男は忽然と姿を消していた。

 

その出来事があって以来、いい音楽や映画に出会うと、心の中にあのマッチョのスキンヘッドが現れるようになってしまった。

ライブハウスでDJがかけた往年の名曲、サブスクリプションのシャッフルでかかった知らない曲、グッときた漫才の1フレーズや小説の中の秀逸な比喩表現。

心が震えた瞬間、ふいにあのスキンヘッドが顔を出し、野太い声で叫ぶのだ。

「いいね!」

 

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ざくろ幻想

「赤い果物って言えば皆んな林檎を思い浮かべるんだろうけど、割ってしまえば中身は真っ白じゃない。それって金メッキのアクセサリーみたいでつまらないわ」そう言って少女は手に持っていた真っ赤な球体にかぶりついた。球体から吹き出した飛沫が少女の頬を汚す。そのベットリとした液体に夕日が反射して鮮血のようにてらてらと光る様を、私は何も言わずじっと見つめていた。

 

初めて石榴を食べたのは小学生の時だった。

とある日の休憩時間、クラスの女子数人に体育館の裏に連れて行かれた。

淡い期待と少しの不安を抱えながらついていくと、女子グループの一人から小さな粒を差し出された。大きさはとうもろこしの一粒大くらいだろうか、レゴブロックのサイレンのパーツにも似たその赤い実を、皆がフリスクでも食べるように次々と口に入れていく。

「食べてみて」そう促され、恐る恐るその初めてみる物体を口に含んだ。

舌で転がすとキャンデーのような食感。しかし噛み砕くとぷちんと弾け、中から濃密な甘酸っぱい果汁が溢れ出した。おいしい、私はすぐにその酸味の虜になった。

「これは石榴っていう果物の実なの。この校舎に一本だけ石榴の木があって、その場所は秘密なんだけど、ここにきたらまた食べさせてあげる。ここのこと、誰にも言わないでね」リーダー格の女子に口止めされたところでチャイムが鳴り、私たちは教室に戻った。

 

それからというもの、私は休憩時間になる度に石榴のもとに通った。

初めて食べた石榴が美味であったことに加えて、学校で秘密の果実を食べていると言う背徳感が私を昂らせていたように思う。しかし、そんな時間は長くは続かなかった。

しばらくするとどこからか噂が出回り、石榴の評判を聞きつけた多くのクラスメイトが押し寄せるようになったのだ。やがて上級生までもが出入りするようになり、会員制のバーのような場所であった体育館裏が、石榴ジャンキーの溢れるさながらアヘン窟のような場所に成り下がってしまった。

やがて石榴は食い尽くされ、文字通り自然消滅する形となった。

 

先日、友人と吸い込まれるように入ったバーで石榴のカクテルを呑み、そんな記憶が蘇ってきた。

 

次の日、スーパーに行くと石榴が売っていた。今までは全く視界に入っていなかったその果実が、懐かしい旧友のように思えてきて、気がつくとカゴの中に放り込んでいた。税抜き398円、果物の相場なんてわからないが、意外と高級品なんじゃないか。

 

家に帰って買ってきた石榴を真っ二つに割る。

真っ赤な粒が不規則に並ぶ様は美しい宝石を想起させるが、同時にかなりグロテスクでもあり、集合体恐怖症の人なんかは卒倒するかもしれない。

半分になった石榴に大胆にかぶり付くと、真っ赤な果汁が飛び散って口内に広がった。

うむ、懐かしい味だ。そう思って2口、3口とかじったが、すぐに味に飽きてしまった。

やはりこれは1日に数粒しか食べられない禁断の果実であったからこそ、小学生の頃の私はあんなに美味しく感じていたのだ。

 

久しぶりに食べた石榴は私にとって様々な意味で甘酸っぱいものとなった。

 

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