まともがわからない

虚実半々くらい

ラストナイト・イン・教習所

3月某日

 

エドガー・ライト監督の新作『スパークス・ブラザーズ』が4月に公開されるということで、なんとしても観に行かねばと待ち侘びていたところ、偶然ドキュメンタリー映画に関する仕事をいただいて、その中で取り扱うということで試写会の席を用意してもらった。

 

スパークス・ブラザーズ』は謎に包まれた兄弟バンド・スパークスの軌跡を追いつつ、有名アーティストたちへのインタビューを通じてそのベールを解き明かしていこうというドキュメンタリー作品。「FFS」でコラボレーションしていたフランツ・フェルディナンドのほか、ベック、トッド・ラングレンレッチリのフリーといった大物まで登場し、スパークスの特異性や音楽的な功績について証言している。

 

僕自身スパークスが大好きで、ニューウェイヴにハマっていた大学生の時にその存在を知り、奇抜なジャケットも目を引いてCD(レコードはあまり出回っておらず、高値だった)を集めていた。メルカリに登録するきっかけになったのも『キモノ・マイ・ハウス』を買うためだったと記憶している。

 

そんな個人的な思い入れもあって、映画は大いに楽しむことができた。エドガー・ライトらしいスタイリッシュな映像で、ときには「スタイリッシュ酔い」しそうになる場面もあったが、通底して被写体となったバンドへの愛が感じられた。

 

エドガー・ライトという映画監督について、僕はあまり多くのことを知らない。『ショーン・オブ・ザ・デッド』は学生のときに観て面白いと思ったが、B級ホラー・コメディとして消費しただけだったし、『ホット・ファズ』にいたっては観てすらいない。

 

その名前がくっきりと脳内にインプットされたのは、多くの人がそうであるように『ベイビー・ドライバー』以降のことである。『ベイビー・ドライバー』は映画にほとんど関心のない僕の恋人も気に入ったようで、ことあるごとに繰り返し観ている(もっとも、彼女はいつも冒頭のシーンを観ただけで満足してしまうので、最後まで観ることはないんだけど…)。

 

そんな経緯もあって、『ベイビー・ドライバー』の次の監督作『ラストナイト・イン・ソーホー』は公開日にふたりで観に行った。

 

『ラストナイト・イン・ソーホー』は、ファッションデザイナーを志して専門学校に通い始めた少女が、寮を飛び出して住み始めたアパートで60年代にタイムスリップしたような夢を見るという話。夢の中で華やかな過去の世界を疑似体験し、実生活も充実し始めた矢先、翳りを見せ始めた夢が現実を徐々に侵食し始める。

 

ジャンル的にはホラーサスペンスなんだけど、その辺はエンタメ性を担保するための装飾に過ぎず、主題として描かれているのは「男性による性暴力の恐怖」だ。特に、芸能界における女性の性的搾取という点は、最近になってようやく報道されるようになった日本映画界の問題とも密接に関わるテーマであるが、そこには今回触れないでおく。

 

エドガー・ライトは『ショーン・オブ・ザ・デッド』でも、ゾンビのような非現実的な存在よりも、恋愛や義父との関係といった現実の面倒ごとのほうが煩わしい、というスタンスをとっていたように思う(日常のイザコザに囚われ過ぎて本当に重大な問題に気付かない現代人の愚かさを皮肉っているともとれるが)。

 

それは『ラストナイト・イン・ソーホー』でも一貫していて、幽霊よりもイヤらしいおっさんのほうが怖いというところはしっかり描かれていると感じた。

 

にもかかわらず、SNS上ではこの作品への批判的な意見もけっこう見られた。多くは女性の感想で、性被害がフラッシュバックするような演出をホラーという一種のエンタメに落とし込むのはいかがなものかというのが大部分だった。実際、僕もホラー的な演出にビクッとなるシーンがあったので、そりゃそうだなと思う反面、男性に「男性による性暴力の恐怖」を体感してもらうためにはこういうやり口もひとつの手段なのではないかとも思った。もちろん、そういう押し付けは女性にはたまったもんじゃないだろうし、不器用な表現だとも思うのだけれど。

 

大学1年生の夏休み、地元に帰っていた僕は運転免許を取るために教習所に通うことにした。地方の教習所という閉鎖的な環境もあってか、教官は偏屈で変わった人が多かったが、何回かコミュニケーションをとるうちに大半の教官とは仲良くなることができた。しかし、どうしても好きになれない教官がひとりいた。

 

彼は小太りの40代くらいの男性で、ことあるごとに生徒を怒鳴りつけていた。車の操縦を少しでも誤った時には激昂するのだけど、その直後には急に猫撫で声になって過剰に褒めてくるのが薄気味悪く、その教官に当たる日はいつも憂鬱だった。

 

無事に仮免許を取得し、路上教習が始まって何度目かのタイミングで、またその教官が担当となる日があった。慣れない夜の路上を緊張しながら車を走らせる。やや急ブレーキ気味になったことに対していつも通りの暴言が浴びせられるのを何となく聞き流していると、お約束通り態度を一転して甘い声で優しい言葉をかけてくる。

 

いつもと違ったのは、急に僕を下の名前で呼んできたことだった。やや不快感を覚えながらも運転に集中し、路上から教習所内へと戻っていく。停車し、教官からのフィードバックをもらう時間、不意に彼の毛深い手が僕の太ももにそっと置かれた。

 

「それ以上は特に何かをされたわけではないんですが、本当に怖かったですよ」

 

僕はこの時のエピソードを、サークルや会社の飲みの席でよく話した。おじさんからも女性からもウケがよくて、会話に困った時の鉄板ネタとして披露していた。僕の中では人生の面白エピソードのひとつくらいの認識だったのだ。

 

しかし、『ラストナイト・イン・ソーホー』を観て以降、その時の記憶を妙に思い出すようになった。

 

あの時、僕は怖かったのだ。

 

当時、大学生の僕と40代の肥満のおっさん。最悪ブン殴ってしまえば簡単に倒せる状況だったにもかかわらず、車内という密室に確かな恐怖心を覚えたし、下心を持って触れられたことが心底悔しかったのだ。僕が非力な女性だったとすれば、間違いなく一生のトラウマになっていただろう。

 

そんな重大な感情を僕はこの映画を観るまで忘れていた。

 

言い換えれば、男性が「男性による性暴力の恐怖」を感じるためには、女性にとってトラウマになるような過激な演出が必要なのかもしれない。エドガー・ライトがそこまで意図していたのかは定かでないが、そんなことをぼんやりと考えていた。

 

同時に、自分自身の過去の振る舞いについても反省した。僕が軽はずみにネタにしていたこの話を聞いて、陰で傷ついていた人がいるかもしれない。

 

少ししょんぼりしてしまった気持ちを励ましてくれるように、スピーカーからスパークスのヘンテコな曲が流れてきた。やっぱり僕はこのバンドが大好きだなと、改めて思った。

 

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