くそったれ人生にさよならぽんぽん
M-1グランプリ2021の決勝進出者発表があり、ランジャタイが初めて決勝へとコマを進めた。
ランジャタイのお笑い評論みたいなのはもう巷で語り尽くされていると思うので、個人的な思い出を話したいと思う。
そもそも、僕は人とお笑いの話をするのがそんなに好きじゃない。
もちろんお笑い自体は大好きだし、人より見てきたという自負もある。
でも、お笑いを語るとなるとどうしても小っ恥ずかしくなって表面的な話しかできなくなってしまう。映画や音楽の話をするときはこうはならないのに。
これには、関西出身だという僕の出自も少なからず関わっているような気がする。
全住人がそこはかとなく「お笑いわかってます」感を漂わせている関西において、お笑いの話をする際は、かなりマニアックな視点から語らないと取り合ってもらえない。そうなってしまうと、お笑いライターの評論を上澄みしたような気取った表現を応酬するだけになり、かなり不毛な議論が形成されてしまう。
また、同族だと思っていた人に会えた喜びから、思わず暴走してお笑いへの愛を語ってしまい、「へえ、けっこうサブカルなんだね」なんて言われた日には、心に受けるダメージは計り知れない。
お笑いなんて、自分が面白いと感じるか否かというだけのシンプルなカルチャーなんだから、もっと気軽に話したいとは思うのだけれど。
そんなわけで、僕は人とお笑いの話をすることを避けてきた。
だけど、たった一度、人とお笑いの話をしたことがある。
まだハタチそこそこだった2015年ごろ。
テレビではアームストロング解散後の「とにかく明るい安村」がブレイクを果たし、「クマムシ」がCDをリリースしていた時代。
僕はほとんど面識のない大学の先輩に呼ばれ、とある居酒屋へと向かった。
その頃の僕はかなりサブカルチャーに傾倒しており、同じくカルチャー好きの先輩たちにまで噂が届いて、ここはひとつ話してみよう、となったらしい。
足利義満に呼ばれた一休少年のような心持ちで対面する。
「雲の上の人」の口から語られる、大好きな漫画の話、知らない音楽の話、斬新な切り口の映画評論。
そのどれもが新鮮で、魅力的に感じられたのを今でも覚えている。
大袈裟かもしれないが、学生にとって初めて会う2、3学年上の先輩というのは、本当に別世界の住人のように感じられるのだ。みんな日本酒なんか飲んでいたし、タバコもバカバカ吸っていたし。
僕はその場の雰囲気に若干緊張しながらも、自分の中に溜め込んでいた拙いカルチャー論をそれなりにうまく話していたんじゃないかと思う。
そんななか、話題は「お笑い」へと移った。
「お笑いはどういうのが好きなの?ラーメンズとか?」
全身に緊張が走る。
きたきた!ラーメンズの話!
僕は高校生の時にラーメンズにどハマりし、ほとんどのネタを誦じられるほど動画を繰り返し観ていた。莫大なパケット量をストリーミング再生に費やしていたと思う。
しかし、2010年代のサブカル界隈でのラーメンズの評価は芳しくなかった。
サブカル・コンテンツとして消費し尽くされ、一周回ってラーメンズを貶むことで通っぷりを出すとかいった、そういうくだらない潮流が確かにあったのだ。
僕はそれも承知であえて答えた。
「けっこう好きですよ。そんなに詳しくないですけど」
「いいよね、ラーメンズ。めっちゃ好き」
先輩の好意的な返答に、間違えなかったという安心感から胸を撫で下ろす。
「最近だと、どういうのが好きなの?」
先述のとおり、人とお笑いの話をするのに抵抗がある僕にとってはこれも怖い質問だ。
正統派過ぎてもつまらないし、気を衒い過ぎてセンスがないやつだとも思われたくない。
「最近だと、ランジャタイが好きですかね」
考えに考えた末に自分の口から出たのは、どう転がってもダメそうなランジャタイの名前。
でも当時の僕は、ランジャタイの「PK戦」というネタに本当に衝撃を受けていたのだ。
PK戦の途中でサッカー・フィールドの地中から松任谷由実が顔を出すと言う難解な設定を、身体表現のみで鮮明にビジュアライズするそのネタは、いわゆる「コント漫才」へのアンチテーゼであり、シュルレアリスム的再解釈であると信じて疑わなかった。
その凄さを誰かに伝えたいけど、誰にもわかってもらえる自信がない。
アンビバレントなジレンマを悶々と抱えていた僕は、この人になら理解してもらえるのではないかと考え、一縷の希望を託したのかもしれない。
「へえ、知らないけど面白そう。見ておくわ」
その後も幾度か飲みに連れて行ってもらったが、ランジャタイの話題が上がることはなかった。
そんなランジャタイがM-1の決勝進出、本当に感慨深い。
もう売れかけているけど、お茶の間に良くも悪くも爪痕を残し、「くそったれ人生にさよならぽんぽん」してもらうことを祈るばかりである。
僕は「もも」を応援します。