まともがわからない

虚実半々くらい

崖の上の…

夏なので怪談話でもひとつ、と思ったが、あいにく僕は実体験としての心霊話を持ち合わせていない。

子供の頃から心霊特番や都市伝説が好きで、友人たちと廃墟や心霊スポットを巡っていた罰当たりな時期もあったが、僕にはいわゆる霊感というものが生来備わっていなかったのであろうか、怪奇現象らしいものに出くわすこともなかった。

そんな僕にもよく思い出せば、今でも背筋が凍るような体験がある。

 

小学生の頃、僕の家族と従兄弟の家族、母方の祖父母で和歌山の白浜に旅行へ出かけた時の話だ。

その二日目、一泊二日旅の帰路の途上、我々は有名な観光地である「三段壁」に立ち寄ることとなった。

三段壁というのはまあ、いってみれば巨大な崖である。

源平合戦にまつわる逸話もあり、国の名勝にも指定されているが、福井県東尋坊と並んで自殺の名所(名所っていう表現もどうかと思うが)とされており、観光客で賑わう中にも「いのちの電話」が設置されてあったりと、なかなか不穏な雰囲気の漂う場所である。

とはいえ、初めて見る断崖絶壁にテンションが上がった僕は、到着するや否や、家族の注意を歯牙にもかけず、一目散に崖の端の方に走っていった。

崖の端に立つと、遠くから見るよりも崖の高さが生々しく感じられる。恐る恐る下を覗き込めば、黒々とした荒波が岩壁にぶつかって爆ぜ、今にも人間を飲み込もうと巨大な獣が咆哮をあげているかのようだった。恐怖に慄きながら後退りし、体と心の拠り所を求めるように手近にあった大きな岩に手をつくと、岩の裏、崖の際になっているところに女が一人、腕を組むようにしてうずくまっているのが見えた。

顔は長い黒髪に隠れて見えないが、骨張った細い身体に無理矢理引っ掛けるように赤いワンピースを纏っている。子供ながらに不信感は抱いたものの、妙な人もいるものだと足元に目線を下ろすと、女の影を塗りつぶすように赤黒い液体が水溜を作っている。よく見れば、女は腕を組んでいたのではなく、左手首を右手で抑えており、そこから夥しい量の血液が流れていた。

人間、本当に驚くと思考がストップするもので、声も上げられず、一歩も動けないまま女を見つめていると、こちらに気づいた女が急に顔を上げ、黒髪の間から生気のない瞳をこちらに向けて覗かせていた。その瞬間、恐怖よりも生存本能が勝ったのだろうか、体の硬直が解け、家族のいる方へ駆けていった。

誰かに今見たことを一刻も早く報告しなければならない、と母親を見つけ出し、伝えようとするが興奮のあまり言葉が出てこない。断片的に言葉を捻り出そうとしていると、先程までいた崖の方が騒然となっていた。

見れば、先程の女が血の滴る左手を上に掲げながら奇声を発している。内容は要領を得ず目の焦点も定まっていないが、どうやら自らの死を周囲に予告しているらしい。野次馬のように集まった人々が口々に説得を続けている。

尋常でない雰囲気を察した大人たちが散らばって遊んでいた子供たちを集め、体で女の姿を隠しながら駐車場の方へと誘導した。女が崖から飛び降りるシーンを目撃すれば、子供たちの心に生涯残る傷を残すと判断したのだろう。

遠くからサイレンの音が聞こえた。結局その後のことは何も分からなかった。

 

帰りの車中、大人たちは女についての推論をああでもないこうでもないと語り合っていた。

結局、僕は女と目があったことを誰にも伝えなかった。

女と目があったあの瞬間、大人の速さなら僕の体を掴むことも容易かったであろう。もし捕まっていれば…。その先を想像するだけでも恐怖に体が震えた。

 

大学生の時、友人たちとの深夜のドライブついでに三段壁に立ち寄った。

暗闇の中を歩き、件の崖に差し掛かろうとした瞬間、背後から大きな音が響いた。

振り返ると、小さなスピーカーから割れるような音で、自殺を思い止まるよう説得する録音の音声が流れている。

当時より厳重に自殺防止柵が設置されているとはいえ、ここはまだ“そういう場所”なのだと思い知らされた。

その時、背後、崖の方から凍てつくような視線を感じた。

脳裏にあの赤いワンピースの女のイメージがよぎる。

結局、そのまま振り返ることはできなかった。

 

駐車場へと帰る道中、背後からは機械的な自殺防止のメッセージが虚しく響いていた。