まともがわからない

虚実半々くらい

高円寺ロータリー百景

4月某日

 

久しぶりに会った友人と飲んだ帰り道。

別れを惜しむように深夜の高円寺のロータリーでタバコを吹かしていた。

 

土曜日の夜ということもあってか、夜のロータリーにはたくさんの人が集っていた。

ギターを弾きながら「雨上がりの夜空に」を歌うバンドマン、地べたに座ってストロング・ゼロを飲む大学生グループ、見たことのない独自のゲームに興じる老人たち。さながら超低予算のウッドストック・フェスティバルのような高円寺の日常風景に安心する。

 

1本目のタバコの火が消え、家に帰ろうとすると男女グループに話しかけられた。

 

「暇なんで、ちょっと話してくれませんか」

チューハイの缶を片手にヘベレケになった鼻ピアスの女と取り止めもない会話を交わす。

 

2本目のタバコに火を着ける。

ふとグループに目を遣ると、YouTubeを観ながらラジオ体操に打ち込むヒゲモジャの男がいた。

 

「なぜ彼はラジオ体操をしているんですか?」

僕は問いかける。

 

「さあ?連れてきますね!」

鼻ピアス女がヒゲモジャ男の手を引き、僕らの前に連れ出す。

話を聞けば、強面な見た目とは裏腹にまだ22歳らしい。

 

当人に再度同じ質問をする。

 

「ラジオ体操が好きなんです。好きな芸人がラジオ体操のネタをやっていて」

彼は意外に甲高い声で答える。

 

そこでピンときた僕は尋ねる。

天竺鼠ですか?」

 

「ああ!そうです。天竺鼠、大好きなんです」とヒゲモジャ男。

「将棋の飛車と角がダンスするネタが好きです」と僕。

「結婚式のやつですよね!」とヒゲモジャ男。

 

なんか既視感があるな、と思ったらそのまま「花束みたいな例のアレ」じゃないか。

このまま儚い恋が始まってしまうのか、僕はパズドラしかできなくなるのか、などくだらない想像を巡らせていたがそんなはずもなく、会話の途中でヒゲモジャ男のグループが一目散に走り出す。

 

何事かと思い彼らが向かった方向を見ると、先ほどまでRCサクセションを歌っていた男が銀杏BOYZの「BABY BABY」を熱唱していた。

 

男に合わせて合唱するロータリーに集った若者たち。

 

高円寺という場所柄もあるのかもしれないけれど、僕らより少し上の世代のアンセムが22歳の若者たちにも今だに支持されていることにちょっと嬉しくなる。

 

友人と解散し、ほろ酔いのまま帰路に着く。

 

イヤホンを耳に挿し、Spotifyを起動して曲を流す。

 

「街はイルミネーション~」と口ずさみながら、ほとんど人のいなくなったアーケード街を踊るように歩いた。

 

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ラストナイト・イン・教習所

3月某日

 

エドガー・ライト監督の新作『スパークス・ブラザーズ』が4月に公開されるということで、なんとしても観に行かねばと待ち侘びていたところ、偶然ドキュメンタリー映画に関する仕事をいただいて、その中で取り扱うということで試写会の席を用意してもらった。

 

スパークス・ブラザーズ』は謎に包まれた兄弟バンド・スパークスの軌跡を追いつつ、有名アーティストたちへのインタビューを通じてそのベールを解き明かしていこうというドキュメンタリー作品。「FFS」でコラボレーションしていたフランツ・フェルディナンドのほか、ベック、トッド・ラングレンレッチリのフリーといった大物まで登場し、スパークスの特異性や音楽的な功績について証言している。

 

僕自身スパークスが大好きで、ニューウェイヴにハマっていた大学生の時にその存在を知り、奇抜なジャケットも目を引いてCD(レコードはあまり出回っておらず、高値だった)を集めていた。メルカリに登録するきっかけになったのも『キモノ・マイ・ハウス』を買うためだったと記憶している。

 

そんな個人的な思い入れもあって、映画は大いに楽しむことができた。エドガー・ライトらしいスタイリッシュな映像で、ときには「スタイリッシュ酔い」しそうになる場面もあったが、通底して被写体となったバンドへの愛が感じられた。

 

エドガー・ライトという映画監督について、僕はあまり多くのことを知らない。『ショーン・オブ・ザ・デッド』は学生のときに観て面白いと思ったが、B級ホラー・コメディとして消費しただけだったし、『ホット・ファズ』にいたっては観てすらいない。

 

その名前がくっきりと脳内にインプットされたのは、多くの人がそうであるように『ベイビー・ドライバー』以降のことである。『ベイビー・ドライバー』は映画にほとんど関心のない僕の恋人も気に入ったようで、ことあるごとに繰り返し観ている(もっとも、彼女はいつも冒頭のシーンを観ただけで満足してしまうので、最後まで観ることはないんだけど…)。

 

そんな経緯もあって、『ベイビー・ドライバー』の次の監督作『ラストナイト・イン・ソーホー』は公開日にふたりで観に行った。

 

『ラストナイト・イン・ソーホー』は、ファッションデザイナーを志して専門学校に通い始めた少女が、寮を飛び出して住み始めたアパートで60年代にタイムスリップしたような夢を見るという話。夢の中で華やかな過去の世界を疑似体験し、実生活も充実し始めた矢先、翳りを見せ始めた夢が現実を徐々に侵食し始める。

 

ジャンル的にはホラーサスペンスなんだけど、その辺はエンタメ性を担保するための装飾に過ぎず、主題として描かれているのは「男性による性暴力の恐怖」だ。特に、芸能界における女性の性的搾取という点は、最近になってようやく報道されるようになった日本映画界の問題とも密接に関わるテーマであるが、そこには今回触れないでおく。

 

エドガー・ライトは『ショーン・オブ・ザ・デッド』でも、ゾンビのような非現実的な存在よりも、恋愛や義父との関係といった現実の面倒ごとのほうが煩わしい、というスタンスをとっていたように思う(日常のイザコザに囚われ過ぎて本当に重大な問題に気付かない現代人の愚かさを皮肉っているともとれるが)。

 

それは『ラストナイト・イン・ソーホー』でも一貫していて、幽霊よりもイヤらしいおっさんのほうが怖いというところはしっかり描かれていると感じた。

 

にもかかわらず、SNS上ではこの作品への批判的な意見もけっこう見られた。多くは女性の感想で、性被害がフラッシュバックするような演出をホラーという一種のエンタメに落とし込むのはいかがなものかというのが大部分だった。実際、僕もホラー的な演出にビクッとなるシーンがあったので、そりゃそうだなと思う反面、男性に「男性による性暴力の恐怖」を体感してもらうためにはこういうやり口もひとつの手段なのではないかとも思った。もちろん、そういう押し付けは女性にはたまったもんじゃないだろうし、不器用な表現だとも思うのだけれど。

 

大学1年生の夏休み、地元に帰っていた僕は運転免許を取るために教習所に通うことにした。地方の教習所という閉鎖的な環境もあってか、教官は偏屈で変わった人が多かったが、何回かコミュニケーションをとるうちに大半の教官とは仲良くなることができた。しかし、どうしても好きになれない教官がひとりいた。

 

彼は小太りの40代くらいの男性で、ことあるごとに生徒を怒鳴りつけていた。車の操縦を少しでも誤った時には激昂するのだけど、その直後には急に猫撫で声になって過剰に褒めてくるのが薄気味悪く、その教官に当たる日はいつも憂鬱だった。

 

無事に仮免許を取得し、路上教習が始まって何度目かのタイミングで、またその教官が担当となる日があった。慣れない夜の路上を緊張しながら車を走らせる。やや急ブレーキ気味になったことに対していつも通りの暴言が浴びせられるのを何となく聞き流していると、お約束通り態度を一転して甘い声で優しい言葉をかけてくる。

 

いつもと違ったのは、急に僕を下の名前で呼んできたことだった。やや不快感を覚えながらも運転に集中し、路上から教習所内へと戻っていく。停車し、教官からのフィードバックをもらう時間、不意に彼の毛深い手が僕の太ももにそっと置かれた。

 

「それ以上は特に何かをされたわけではないんですが、本当に怖かったですよ」

 

僕はこの時のエピソードを、サークルや会社の飲みの席でよく話した。おじさんからも女性からもウケがよくて、会話に困った時の鉄板ネタとして披露していた。僕の中では人生の面白エピソードのひとつくらいの認識だったのだ。

 

しかし、『ラストナイト・イン・ソーホー』を観て以降、その時の記憶を妙に思い出すようになった。

 

あの時、僕は怖かったのだ。

 

当時、大学生の僕と40代の肥満のおっさん。最悪ブン殴ってしまえば簡単に倒せる状況だったにもかかわらず、車内という密室に確かな恐怖心を覚えたし、下心を持って触れられたことが心底悔しかったのだ。僕が非力な女性だったとすれば、間違いなく一生のトラウマになっていただろう。

 

そんな重大な感情を僕はこの映画を観るまで忘れていた。

 

言い換えれば、男性が「男性による性暴力の恐怖」を感じるためには、女性にとってトラウマになるような過激な演出が必要なのかもしれない。エドガー・ライトがそこまで意図していたのかは定かでないが、そんなことをぼんやりと考えていた。

 

同時に、自分自身の過去の振る舞いについても反省した。僕が軽はずみにネタにしていたこの話を聞いて、陰で傷ついていた人がいるかもしれない。

 

少ししょんぼりしてしまった気持ちを励ましてくれるように、スピーカーからスパークスのヘンテコな曲が流れてきた。やっぱり僕はこのバンドが大好きだなと、改めて思った。

 

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くそったれ人生にさよならぽんぽん

M-1グランプリ2021の決勝進出者発表があり、ランジャタイが初めて決勝へとコマを進めた。

ランジャタイのお笑い評論みたいなのはもう巷で語り尽くされていると思うので、個人的な思い出を話したいと思う。

 

そもそも、僕は人とお笑いの話をするのがそんなに好きじゃない。

もちろんお笑い自体は大好きだし、人より見てきたという自負もある。

でも、お笑いを語るとなるとどうしても小っ恥ずかしくなって表面的な話しかできなくなってしまう。映画や音楽の話をするときはこうはならないのに。

 

これには、関西出身だという僕の出自も少なからず関わっているような気がする。

全住人がそこはかとなく「お笑いわかってます」感を漂わせている関西において、お笑いの話をする際は、かなりマニアックな視点から語らないと取り合ってもらえない。そうなってしまうと、お笑いライターの評論を上澄みしたような気取った表現を応酬するだけになり、かなり不毛な議論が形成されてしまう。

また、同族だと思っていた人に会えた喜びから、思わず暴走してお笑いへの愛を語ってしまい、「へえ、けっこうサブカルなんだね」なんて言われた日には、心に受けるダメージは計り知れない。

お笑いなんて、自分が面白いと感じるか否かというだけのシンプルなカルチャーなんだから、もっと気軽に話したいとは思うのだけれど。

 

そんなわけで、僕は人とお笑いの話をすることを避けてきた。

だけど、たった一度、人とお笑いの話をしたことがある。

 

まだハタチそこそこだった2015年ごろ。

テレビではアームストロング解散後の「とにかく明るい安村」がブレイクを果たし、「クマムシ」がCDをリリースしていた時代。

 

僕はほとんど面識のない大学の先輩に呼ばれ、とある居酒屋へと向かった。

その頃の僕はかなりサブカルチャーに傾倒しており、同じくカルチャー好きの先輩たちにまで噂が届いて、ここはひとつ話してみよう、となったらしい。

 

足利義満に呼ばれた一休少年のような心持ちで対面する。

「雲の上の人」の口から語られる、大好きな漫画の話、知らない音楽の話、斬新な切り口の映画評論。

そのどれもが新鮮で、魅力的に感じられたのを今でも覚えている。

大袈裟かもしれないが、学生にとって初めて会う2、3学年上の先輩というのは、本当に別世界の住人のように感じられるのだ。みんな日本酒なんか飲んでいたし、タバコもバカバカ吸っていたし。

 

僕はその場の雰囲気に若干緊張しながらも、自分の中に溜め込んでいた拙いカルチャー論をそれなりにうまく話していたんじゃないかと思う。

そんななか、話題は「お笑い」へと移った。

 

「お笑いはどういうのが好きなの?ラーメンズとか?」

全身に緊張が走る。

きたきた!ラーメンズの話!

僕は高校生の時にラーメンズにどハマりし、ほとんどのネタを誦じられるほど動画を繰り返し観ていた。莫大なパケット量をストリーミング再生に費やしていたと思う。

 

しかし、2010年代のサブカル界隈でのラーメンズの評価は芳しくなかった。

サブカル・コンテンツとして消費し尽くされ、一周回ってラーメンズを貶むことで通っぷりを出すとかいった、そういうくだらない潮流が確かにあったのだ。

 

僕はそれも承知であえて答えた。

「けっこう好きですよ。そんなに詳しくないですけど」

「いいよね、ラーメンズ。めっちゃ好き」

先輩の好意的な返答に、間違えなかったという安心感から胸を撫で下ろす。

 

「最近だと、どういうのが好きなの?」

先述のとおり、人とお笑いの話をするのに抵抗がある僕にとってはこれも怖い質問だ。

正統派過ぎてもつまらないし、気を衒い過ぎてセンスがないやつだとも思われたくない。

 

「最近だと、ランジャタイが好きですかね」

 

考えに考えた末に自分の口から出たのは、どう転がってもダメそうなランジャタイの名前。

 

でも当時の僕は、ランジャタイの「PK戦」というネタに本当に衝撃を受けていたのだ。

 

PK戦の途中でサッカー・フィールドの地中から松任谷由実が顔を出すと言う難解な設定を、身体表現のみで鮮明にビジュアライズするそのネタは、いわゆる「コント漫才」へのアンチテーゼであり、シュルレアリスム的再解釈であると信じて疑わなかった。

その凄さを誰かに伝えたいけど、誰にもわかってもらえる自信がない。

アンビバレントなジレンマを悶々と抱えていた僕は、この人になら理解してもらえるのではないかと考え、一縷の希望を託したのかもしれない。

「へえ、知らないけど面白そう。見ておくわ」

 

その後も幾度か飲みに連れて行ってもらったが、ランジャタイの話題が上がることはなかった。

 

そんなランジャタイがM-1の決勝進出、本当に感慨深い。

もう売れかけているけど、お茶の間に良くも悪くも爪痕を残し、「くそったれ人生にさよならぽんぽん」してもらうことを祈るばかりである。

 

僕は「もも」を応援します。

 

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むすんでひらいて

モバイルバッテリーを取り出そうとして肩を滑らせたリュックを地面に落としてしまった。

リュックの横には小さなミミズがいて、突如横に降ってきた巨大な落下物に怯えるようにクネクネと身を捩らせていた。

普段だったら気持ち悪いと感じてしまう光景だが、自分の口から「ごめんな」という素直な謝罪の言葉が漏れたのは、昼間に観た映画の影響かもしれない。

 

綿矢りさの同名小説が原作の映画『ひらいて』。

同氏の小説をほとんど読んだことがないこともあって、自分では進んで観ようと思わないタイトルだったが、映画に詳しい同僚が面白かったと言っていたので気になってチケットを取った。

 

劇場に入ると、客席に座っているのが若い女性ばかりで面食らった。普段自分が観に行く映画の客層とえらい違いで少し不安になる。エンドロールを見て知ったのだが、主要人物の男子校生を演じる俳優がジャニーズの人気メンバーらしく、それを目当てにやってきた人が多かったのだろう。

 

『ひらいて』は、ソシオパス気味の女子高生の愛憎入り混じった奮闘劇だ。主人公は好きな男子に恋人がいることを知り、かなりダーティーな手法を用いてその恋人に接近する。恋人と仲良くなることには成功したものの、肝心の男子からは相手にされず、それでも自分の気持ちを抑えられずに暴走していく。

 

「純愛」なんて口にすれば歯の浮くようなセリフだが、そもそも「愛」なんてものは種を残すため、あるいは種を守るためのプリミティブな感情で、それが生物の本能なのだから「純」なのは当然のことである。これは恋愛にのみ限った話ではなくて、家族愛、友情にもいえることだし、生殖を目的としないプラトニックな愛情や同性愛についても同じことだろう。

 

「純愛」を貫くカップルと、そこに異物のように混ざり込む主人公との歪な関係。劇中にはもうひと組、肉体関係による繋がりを持った男女も登場するが、いずれの人物も(程度の差こそあれど)危ういけれど確かな恋愛感情を持っているという点では大差ない。

 

初めは憎むべき相手として近づいた恋敵にも、彼女を籠絡しようといきすぎたスキンシップをとる内に複雑な感情が芽生える主人公。卑怯なやり方で意中の人に好意を伝えても内面を見透かされ、痛々しく突飛な行動を取り続ける。やがて、その瞳は光を失っていく。そんな主人公の名前が「愛」なのも妙に皮肉めいている。

 

主人公の行動は最初からエキセントリックで理解し難いのだけれど、その感情の動きは痛い程わかって、思わず涙してしまうシーンもあった。

チェンソーマン」といった作品が登場するのも今っぽくてよかったし、最近の日本の学園モノにありがちな「スクールカースト」的なものをわかりやすく描いていない点にも好感が持てた。ジュースの使い方もうまい。なにより、主演の女子2人の演技が素晴らしかった。

 

タイトルの「ひらいて」が示すのは手紙なのか、桜の花なのか、心なのか、それとも別のものなのか。

 

エンドロールの後、件のジャニーズファンの女の子たちが口々に感想を言い合っていた。

「何某くんカッコ良かった~。映画はよくわかんなかったけど。でもああいう女いるよね。人の彼氏を奪いにいく女。ほんとに無理」

個人の感想なので口出しするのが野暮なのは重々承知だが、そんな言葉で片付けていいものか。

あれは私であり、あなたであり、人に愛情を感じたことのある全ての人々持つ醜くて純真な一面なのだ。

アイドルの男の子を熱烈に応援するあなたにはきっとわかるはずだ。

 

冒頭の話に戻ろう。

有名な童謡の歌詞じゃないが、ミミズだって懸命に生き、種を残そうと生殖活動を行えばそれこそ立派な「純愛」だ。僕が彼(ミミズは雌雄同体なので正しくないが)にいつもより優しくなれたのは、この映画を観てそんな事を考えたからだろうと思う。

 

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仮面をはずさないで

リキッドルーム坂本慎太郎さんのライブを観にいった。

 

完全入替二部構成の第二部、早めにチケットの抽選に当選したこともあって最前列を確保することができた。挨拶とメンバー紹介以外のMCなし、アンコールなし、一時間ピッタリのストイックなステージ。ソロは複雑なアンサンブルから成る楽曲も多いため、いわゆる上モノがギター1本と管楽器のみのバンド編成で再現できるのか若干疑問であったが、そこは伝説のスリーピース・バンドのフロントマン、一聴すれば無骨にも聞こえるギターの音を絶妙にリズムの中に溶かし、惚れ惚れするグルーヴを作り上げていた。

 

坂本さんの楽曲は、飄々としているようにみえて、その中に社会への鋭い皮肉を内包しているところがすごく好きだ。

 

眉間に小さなチップを埋めるだけ/決して痛くはないですよ

ロボット/新しいロボットになろう

不安や虚無から解放されるなら/決して高くはないですよ

ロボット/素晴らしいロボットになろうよ

「あなたもロボットになれる」

 

 

ディスコって/男や女が踊るところ

ディスコって/不思議な音楽かかるところ

ディスコで/君は何もしない

ディスコも/君に何もしない

「ディスコって」

 

 

これらの楽曲はコロナ禍よりかなり前に制作されたものであるにもかかわらず、飲食店の営業が制限され、音楽イベントが相次いで中止を発表している現在の世の中に不思議と切実に響く。

 

ライブで特に印象的だったのが「仮面をはずさないで」という曲。

 

さわれば/やわらかすぎて

ショックで/壊れやすくて

仮面の上にもう一枚/仮面を

 

感染症対策としてマスクをつけることが日常になってしばらく経つ。

僕などはマスクをつけ忘れて外に出ると、下着を履き忘れたような羞恥に苛まれるようになってしまった。おそらく僕の中でマスクは、感染症に対するどこにもぶつけるアテのない不満を、覆い隠して内に留める一種のメタファーになっているのではないかと思う。

 

さらにこの曲はこう続く。

 

君が/演じている君の

横に/俺が演じる俺

芝居の中でもう一度/芝居を

 

 

けっこう前に寄席で「七段目」という古典落語を観た。

歌舞伎マニアのとある若旦那が、忠臣蔵をモチーフとした歌舞伎を演じる歌舞伎役者になりきって騒ぎを起こすドタバタコメディーなのだが、これをやる噺家は、「忠臣蔵に登場する平右衛門」を演じる「歌舞伎役者」を演じる「若旦那」を演じなければならないという、かなりややこしい多層構造を持った演目である。

 

どうか虚構であって欲しいと願うほどに不信感を覚えるニュースが毎日のように報じられ、かといって不満のはけ口も少なく、自分たちの役割を演じ続けることで精一杯な現状とのギャップに、どこかリアリティを感じられない日々ではあるが、自分の好きなものをしっかりと享受して、メタファーとしてのマスクくらいは少しずつ脱ぎ捨てていければいいと思う。

 

余談だが、最近家の近所で坂本慎太郎さんらしき人を何度か目撃した。

例によってマスクをしているため本人と断定できず、もし人違いなら小っ恥ずかしいことになる。

ライブを観にいった現在、今度こそ声をかけてみようかとも思うのだが、「仮面をはずさないで」と歌っている人のプライベートに話しかけるのも失礼な気がして、何となくモヤモヤしている。

崖の上の…

夏なので怪談話でもひとつ、と思ったが、あいにく僕は実体験としての心霊話を持ち合わせていない。

子供の頃から心霊特番や都市伝説が好きで、友人たちと廃墟や心霊スポットを巡っていた罰当たりな時期もあったが、僕にはいわゆる霊感というものが生来備わっていなかったのであろうか、怪奇現象らしいものに出くわすこともなかった。

そんな僕にもよく思い出せば、今でも背筋が凍るような体験がある。

 

小学生の頃、僕の家族と従兄弟の家族、母方の祖父母で和歌山の白浜に旅行へ出かけた時の話だ。

その二日目、一泊二日旅の帰路の途上、我々は有名な観光地である「三段壁」に立ち寄ることとなった。

三段壁というのはまあ、いってみれば巨大な崖である。

源平合戦にまつわる逸話もあり、国の名勝にも指定されているが、福井県東尋坊と並んで自殺の名所(名所っていう表現もどうかと思うが)とされており、観光客で賑わう中にも「いのちの電話」が設置されてあったりと、なかなか不穏な雰囲気の漂う場所である。

とはいえ、初めて見る断崖絶壁にテンションが上がった僕は、到着するや否や、家族の注意を歯牙にもかけず、一目散に崖の端の方に走っていった。

崖の端に立つと、遠くから見るよりも崖の高さが生々しく感じられる。恐る恐る下を覗き込めば、黒々とした荒波が岩壁にぶつかって爆ぜ、今にも人間を飲み込もうと巨大な獣が咆哮をあげているかのようだった。恐怖に慄きながら後退りし、体と心の拠り所を求めるように手近にあった大きな岩に手をつくと、岩の裏、崖の際になっているところに女が一人、腕を組むようにしてうずくまっているのが見えた。

顔は長い黒髪に隠れて見えないが、骨張った細い身体に無理矢理引っ掛けるように赤いワンピースを纏っている。子供ながらに不信感は抱いたものの、妙な人もいるものだと足元に目線を下ろすと、女の影を塗りつぶすように赤黒い液体が水溜を作っている。よく見れば、女は腕を組んでいたのではなく、左手首を右手で抑えており、そこから夥しい量の血液が流れていた。

人間、本当に驚くと思考がストップするもので、声も上げられず、一歩も動けないまま女を見つめていると、こちらに気づいた女が急に顔を上げ、黒髪の間から生気のない瞳をこちらに向けて覗かせていた。その瞬間、恐怖よりも生存本能が勝ったのだろうか、体の硬直が解け、家族のいる方へ駆けていった。

誰かに今見たことを一刻も早く報告しなければならない、と母親を見つけ出し、伝えようとするが興奮のあまり言葉が出てこない。断片的に言葉を捻り出そうとしていると、先程までいた崖の方が騒然となっていた。

見れば、先程の女が血の滴る左手を上に掲げながら奇声を発している。内容は要領を得ず目の焦点も定まっていないが、どうやら自らの死を周囲に予告しているらしい。野次馬のように集まった人々が口々に説得を続けている。

尋常でない雰囲気を察した大人たちが散らばって遊んでいた子供たちを集め、体で女の姿を隠しながら駐車場の方へと誘導した。女が崖から飛び降りるシーンを目撃すれば、子供たちの心に生涯残る傷を残すと判断したのだろう。

遠くからサイレンの音が聞こえた。結局その後のことは何も分からなかった。

 

帰りの車中、大人たちは女についての推論をああでもないこうでもないと語り合っていた。

結局、僕は女と目があったことを誰にも伝えなかった。

女と目があったあの瞬間、大人の速さなら僕の体を掴むことも容易かったであろう。もし捕まっていれば…。その先を想像するだけでも恐怖に体が震えた。

 

大学生の時、友人たちとの深夜のドライブついでに三段壁に立ち寄った。

暗闇の中を歩き、件の崖に差し掛かろうとした瞬間、背後から大きな音が響いた。

振り返ると、小さなスピーカーから割れるような音で、自殺を思い止まるよう説得する録音の音声が流れている。

当時より厳重に自殺防止柵が設置されているとはいえ、ここはまだ“そういう場所”なのだと思い知らされた。

その時、背後、崖の方から凍てつくような視線を感じた。

脳裏にあの赤いワンピースの女のイメージがよぎる。

結局、そのまま振り返ることはできなかった。

 

駐車場へと帰る道中、背後からは機械的な自殺防止のメッセージが虚しく響いていた。

Only In Dreams

子供の頃に好きだった女の子が夢に出てきた。

正直、顔は全く覚えておらず、夢の中の表情もピンぼけしているのだが、何故だかはっきりとその女の子であると認識できる。 夢の内容を滑々と語らう程野暮ではないが、中学、高校、大学のクラスメイトが十把一絡げに混在しているにもかかわらず、特に違和感なく受け入れているという、夢裡にはよくあるあの世界に僕は迷い込んでいた。 (学説的にこの現象に名前はないのかと色々調べてみたが、それらしいものが見つからなかったので詳しい人がいたらご教示願いたい。ちなみに僕は「同窓現象」と名付けた。)

 

僕はあまり熱心にSNSを活用してはいないのだけれど、三年に一度くらいフェイスブックを覗いてみることがある。特に、中学時代や高校時代などを共に過ごした友人と一緒に見るのが楽しい。意外なところが知り合っていたり、結婚していたり、破局していたりと、学生時代の後日譚をみているようで結構盛り上がる。

興味本位で夢に現れたあの子も探してみたが、それらしいアカウントは見つからなかった。

 

フィッツジェラルドの短編に「冬の夢」という話がある。

 

主人公の男は、10代の頃、ある富豪の家の少女に恋をする。

身分の違う美しい少女への淡い恋心。 やがて彼は事業に成功して一財を成し、彼女と付き合うようになるが、奔放な彼女に苦悩し、別れを選ぶ。その後、別の女性との結婚が決まるも、再び現れた彼女の姿に決意が揺らぐ。 しかし、奔放な性格は変わっておらず、結局彼女は彼の前から姿を消す。 少ししてから、彼は仕事で出会った男から、彼女が別の男と結婚し、かつての輝きを失った月並みの主婦になってしまったことを聞かされ、涙を流す。

 

この話は、憧れの少女が平凡化してしまうことの悲しみ、みたいなことが主題だと思うんだけど、結局は主人公の男が少女を偶像化し、少年期からの恋を美談にして引きずっているだけで、エゴイズムでしかなく、女は男に最初から大した興味もないし、結婚生活も育児もそれなりに苦労しながら楽しくやっているんじゃないかというのが僕の感想だ。

いってみれば、崇拝していたアイドルが結婚して、育児に勤しみ、やがて離婚したニュースを知ってそれみたことかとあげつらうアイドルオタクの悲しみみたいなのが垣間見えるように思う。

 

何にせよ、知らぬが仏ということは世の中に結構ある。 夢に現れたあの子のアカウントが一生見つからないことを願うばかりである。

 

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